ricochettanの日記

転職&上京&ダイエットを目論む25歳のブログ

伝える努力

私は語彙力がある方だと思います。

単に知識としてムズカシイ言葉を知っている、という意味でなく普段の会話の中でそれなりに豊かで正確な表現を使うことに拘っています。できる範囲ですけどね。

 

これは知らず知らずのうちに身につけた+意識的に語彙を吸収しようと取り組んだ結果でもあります。大抵の人はそうだと思います。

 

はっきり言って地元では、周囲で自分以上に多様な表現を使って会話する人に出会えません。

 

地元の人間(特に中年以上の人)は、発言の中で指示語がかなり多い。

「あれってこっち?」「そこにそれがあるよ」「あれをあれするやつ」。

物や場所の名前はもちろん人の名前もうまく出てこない人が多いんです。

 

昔はそうそう意識することもなかったのですが、地元に戻ってからはかなりイラついてしまいます。

「正式名称を用いない」「正確な表現をしない」というのは、伝える努力を一切放棄して相手に「察しろ」と求めることなんですよね。

指示語の多い人、極端に語彙が少ない人は、相手の心理的な負担…......現在の状況、発言者の背景、普段の言動や性格から「もしかしてこう言いたいのかな?」「ひょっとしてこうなのかな?」と推理させていることについて、特に何も思うところがないんでしょうね。

 

以前書いたこともあるかと思いますが、

「地方に残っている人」って地元に貢献したかったり、何か目的があったりして残ったわけではないんですよね。

 

単に能力が低くて地元を出ていけないだけです。

 

意識して能力を高めようとすることがないんですよ。

 

残酷ですが、コミュニケーションにも知能は求められます。

そして知能が低い人は、知能を求められる場――専門性の高い会話や、想像力を働かせなくてはいけない場面で戦えないので、中卒程度の能力でも何とかやっていける地元に残るしかないのです。敬語が使えない人、親密度に応じて言葉遣いの使い分けができない人、地元以外の場所でも方言が抜けない人。みーんな頭が弱いですし、それを許してくれる環境でしか生きていけないんです。

 

ほんとにちょっとしたことだと思うんですよ。

本や雑誌を読むとか。映画や舞台を観るとか。普段自分が属しているのと違う世界を覗くのってそんなに難しいんでしょうかね。私の地元のようなクソ田舎でも「本をたくさん読んだ方がいい」という価値観に異を唱える人は流石に少ないです。

 

なんとなくわからないけれど、世界に対して広い視野を築くこと自体は将来の選択肢を広げてくれるって、そう思う人は多いんですよ。こんなクソ田舎でもね。

 

読書や勉強は世界に対する解像度を上げてくれるよなあ、と最近つくづく思います。